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- 成田荘(中世)とは
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成田荘(中世) 鎌倉期に見える荘園名常陸国のうち正中2年3月の最勝光院寺領年貢進済注進状に「最勝光院,注進寺領荘園年貢近年所済出物等散状事」として「常陸国成田荘」と見え(東寺百合文書/荘園志料),当荘の本家は最勝光院,領家は持明院左兵衛督保藤で,本年貢として国絹100疋,綾被物2疋(うち7月御八講1重,8月御月忌1重),閏月兵士3人(近年は兵士の代わりに5貫文を進済)であったが,近年は本年貢代銭6貫文,被物代1貫400文のほかは未進となっていた被物に関しては,鎌倉期と推定される最勝光院領被月充注文に「八月 成田……七月御八講……成田」と見える(東寺文書3/大日古)最勝光院は承安3年建春門院の立願により後白河天皇が建立したもので,寺領の形成も平安末期と推定される同院の没後,最勝光院領は後白河・後堀河・後嵯峨・亀山・後宇多・後醍醐天皇と本家職は大覚寺統に伝領されていったが,正中3年3月19日に後醍醐天皇が東寺に最勝光院領を寄進したため,以後当荘も東寺領となった(東寺百合文書)先の注進状は東寺に寄進される直前の状態を示しているその後,東寺文書に当荘の名を見出せず,南北朝期には東寺の支配が失われたものと思われるなお,延元元年6月20日の烟田信崇譲状に「成田大道」が見える(烟田文書)「新編常陸」には「今行方郡野友・串引・半原・高田ノ諸村,皆成田郷ト称ス,古ノ成田庄タルコト知ルベシ……成田・小貫・次木・穴瀬・金上・帆津倉等ハ武田郷ト称ス,然レドモ地勢ニヨレバコレ皆成田庄ノ内ト見ユ」と見え,現在の北浦町北部から鉾田町南部にかけた地域に比定される |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」